4月29日・・下関ふく供養祭が開催され小生も参加いたしました。
下関の『ふく供養祭』は、秋の彼岸から春の彼岸までと言われる『ふく』のシーズン終わりを全国に告げるふく業界最大の行事です。
当日は全国のふく取扱い卸業者・養殖業者・料理業界等関係者多数が参列し、今シーズン水揚げされたフク殿に感謝し、供養を行った後、観光船を従えて放魚船が南風泊市場沖合でフクを放流。
その御霊を慰め、来季のフク豊漁とフク船団の航海の安全を祈願しています。
下関の『ふく供養祭』は、秋の彼岸から春の彼岸までと言われる『ふく』のシーズン終わりを全国に告げるふく業界最大の行事です。
当日は全国のふく取扱い卸業者・養殖業者・料理業界等関係者多数が参列し、今シーズン水揚げされたフク殿に感謝し、供養を行った後、観光船を従えて放魚船が南風泊市場沖合でフクを放流。
その御霊を慰め、来季のフク豊漁とフク船団の航海の安全を祈願しています。
『伊藤博文公と春帆楼』・・・初代内閣総理大臣・伊藤博文公の『ふくは旨い』の一声で解禁へ
ふくの料亭として有名な春帆楼は江戸時代末期、豊前中津奥平藩(大分県中津市)の御殿医だった藤野玄洋が現在の下関市阿弥陀寺町に開業した病院が前身で、当時、妻のみちが患者に手料理を出していたのが起源とされています。
その当時、下関は「馬関」と呼ばれ、北前船の基地として賑わっていました。
伊藤博文や高杉晋作、山縣有朋ら幕末の志士も玄洋の人柄にひかれ、頻繁におとづれていたと言われています。
玄洋が47歳で亡くなったことにより、伊藤博文の強い勧めで、明治4年(1871年)頃から、みちは夫の病院をたたみ、割烹料理店として開業いたしました。
『春帆楼』の名は「春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる」様子から、伊藤博文が命名しました。
現在、同店で使われている春帆楼の文字も伊藤博文公の自筆によるものです。
以前にもBlogで紹介しましたが、明治18年に初代内閣総理大臣に就任した伊藤博文公は同21年(1888年)に春帆楼に泊り、あいにくのシケで魚が手に入らない中、「何か魚を出せ」と、ごねる宰相に女将のみちは、打ち首覚悟で当時食用を禁じられていた生かしていたフグを出し、あまりのフグの美味しさに伊藤博文の声掛かりで禁制が解かれ、同店がフグ公許第一号店となりました。
今年はふく食解禁から120年の記念すべき年です。・・・
是非、みなさん下関に美味しいふくを食べにおいでませ!!