下関市長府町の覚苑寺(かくおんじ)境内に、長門鋳銭所跡が存在します。
鋳銭所というのは奈良時代から平安時代にかけて、各所に設けられた官営の銭貨製造所であり、「続日本書紀」には、天明天皇の和銅元年(708)2月の条に「催鋳銭司をおき、従五位上多治比真人三宅麻呂をもってこれに任ず」とあり、鋳銭所は武蔵、近江、河内、播磨、太宰府 長門、のちに周防などに設けられました。
長門鋳銭所で鋳造されたのはわが国最初の金属貨幣和同開珎(わどうかいちん、和同開寳ともいう)です。
この貨幣が鋳造されたのは和同元年(708)から天平宝字4年(760)にかけてです。その跡がはっきり残っているのは長門だけです。
史蹟長門鋳銭所跡の説明板には・・・長府地区の西側を限る、准堤峰(標高176m)東南麓斜面に位置し、鋳銭峰や、火除け道などの銭貨鋳造を物語る呼称も残っています。
現在の黄檗宗法輪山覚苑寺一帯の一万四千㎡が史跡として国の指定を受けています。
遺跡の発見は、江戸時代の寛永年間(1624~1643年)にまで遡り、現在まで、数度にわたる発掘や調査が行われています。
これらにより、奈良時代の「和同開珎」や鋳型、坩堝、鞴の羽口などの銭貨鋳造用具のほか、銭貨鋳造に伴う副産物である銅滓等が多数出土し、古代銭貨鋳造の事実を明らかにしていますと記されています。
法輪山覚苑寺は、元禄十一年(一六九八)に創建された黄檗宗寺院で、開基は黄檗宗に帰依した長府藩第三代藩主毛利綱元。開山は、綱元が宇治の黄檗山万福寺から招いた悦山禅師である。
この建物は、周防三田尻(現・防府市)にあった黄檗宗寺院の海蔵醍醐寺の本堂として寛政六年(一七九四)に建立されたもので、明治八年(一八七五)、廃寺となっていた海蔵醍醐寺から覚苑寺に移築され、以後、当寺の本堂(大雄宝殿)として利用されている。
構造形式は、桁行三間・梁間三間で一重裳階付の吹放し、屋根は入母屋造の本瓦葺。基壇は乱石積で、正面に石階六級を設け、礎石は花崗岩切石上に石造角形礎盤を置く。
軸部は総て面取角柱を使用し、柱頭は粽形、足元は丸面となっており、身舎は飛貫・頭貫懸鼻付・台輪。中央間四面及び両脇間を虹梁で繋ぎ、裳階は地覆・腰貫・飛貫・頭貫・台輪で構成されている。
組物は身舎柱上及び大平束上に禅宗様出三斗笹繰付と出桁、裳階柱上及び中備大斗肘木内外は木鼻付となっている。
軒は二軒繋垂木で、妻飾は破風板、眉欠、化粧棟木に鰭付かぶら懸魚を施している。
この建築様式は、本市に遺例の少ない江戸時代の黄檗宗寺院の典型的な特徴を示しており、建築史的な価値が高い建造物です。
下関・長府の町は国宝/功山寺仏殿や長府毛利邸・明治維新など多くの神社・仏閣・史跡があります。
是非、一度おいでませ!!