巌流島の決闘!!

今回は下関の歴史の中で、全国的に知られる事件の一つ『巌流島の決闘』について、少しご紹介します。
本州と九州に挟まれて、激流が渦巻く関門海峡。幾多の歴史の転換の舞台となったこの海峡の西端に、巌流島はひっそりと浮かんでいます。
『舟島』それが巌流島の正式な名称です。
大正時代に入って埋め立てられる前は、1万7000泳法メートルの小島でした。
島の北西部先端に、18メートルくらいの高さの小高い丘があり、真横から見ると後方が平坦でこれに松並木があっていかにも船のようだと名づけられたと言われています。
その舟島が巌流島と呼ばれるようになったのは、言わずと知れた剣聖・宮本武蔵と巌流・佐々木小次郎の決闘の場所になったことによります。
巌流島 宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたのは慶長17年、西暦1612年4月13日と言われています。
この決闘に関する資料は数多くありますが、佐々木小次郎の年齢について17歳であったという説の他、有力な説として70歳をすでに越えていたという説もありますが、この決闘の際に記録された文書が存在しないため、正確なところは謎です。
決闘の日の朝、武蔵に指定された時間に小次郎は舟島へ向かいました。
弟子達も小次郎のあとを追って船を出したのですが、「一対一の真剣勝負である」と、小次郎は弟子達に付いてこないように告げました。
そこで、弟子達は彦島に上陸し、小次郎の勝利を固唾をのんで見守っていました。
この場所は現在も「弟子待」という地名として残っています。
この場所は一時は巨大な各社石油タンクの林立する石油ターミナルでしたが、現在はその多くが撤退し、山肌は住宅地として開発が進んでいます。
巌流島-1 決闘は武蔵がわざと遅刻して、小次郎がそれに怒り冷静さを失っている所をつかれて、やられてしまったと言われます。
小次郎が、さっさと行くぞ、と言って刀の鞘を投げ捨てると、それを指して武蔵が「小次郎敗れたり」と言い「勝負のあと刀を納めるべき鞘を捨ててしまったのは、もうそれに納めら れないということだ」と指摘して、更に小次郎の動揺を誘ったといいます。
勝者は刀を鞘へ戻さなければならないからです。
そんなことにはかまわず小次郎は武蔵へ斬りつけました。
小次郎の刀は武蔵の鉢巻きをふたつに切り裂きましたが、その時、武蔵の木刀は小次郎の頭をしっかりとらえていました・・・。
武蔵はとどめも刺さずにそのまま帰ってしまい、島へ上陸していた武蔵の弟子達によって小次郎はとどめを刺されたという話も残っています。
当時の人は小次郎に同情的で舟島に墓を建て懇ろに弔いました。
腕にそう差がない場合、こういう心理戦の比重というのは大きいのかも知れませんネ。
現在の巌流島は整備され、多くの観光客が訪れる観光スポットになっています。
巌流島からの眺めは最高です。正面に関門橋、国際航路の関門海峡・・・大型の船舶が真縁を通過する様は圧巻です。
是非、一度立ち寄って頂きたいですネ(^^♪

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