吉田松陰は文政13年(1830年)9月20日に長州藩の下級武士杉百合助の次男として生まれました。
松陰の生家は下級武士だったため、農作業をしながら生活しなければならなりませんでした。
松陰には、吉田大助と玉木文之進という2人の叔父がいました。
吉田家には跡継ぎがいなく、松陰は幼くして吉田大助のもとに養子に行くこととなりました。
吉田家は長州藩の兵学師範の家柄だったので、将来は兵学師範となる事を決められていました。
松陰が養子に行ってまもなく吉田大助が急死した為、6歳にして吉田家の家督を継ぎ藩校明倫館の兵学師範にならなければいけなくなりました。
そこで兵学教育にあたったのがもう一人の叔父である玉木文之進でした。
玉木文之進の厳しい教育により松陰は成長し、11歳のとき藩主毛利敬親の前で講義することになったが、その講義が藩主をはじめ重臣たちの目を見張るものがあり、たちまち萩城下にその名が知れ渡るほどとなりました。
その後19歳で山鹿流兵学師範(兵学教授)に就任し21歳のときに九州遊学の許可が下り、また江戸への遊学・・・
しかし、嘉永4年(1851年)藩の許可なく東北行を敢行して御家人召放となり、また、安政元年(1854年)ペリーが和親条約締結のため再航した時、密航を企て失敗して入獄されてしまいました。
野山獄を出た松陰は藩から自宅謹慎を命じられ、実家の杉家に「幽囚」の身として戻り、1年後、叔父玉木文之進の松下村塾の主宰者となり、高杉晋作、久坂玄瑞、入江杉蔵、野村和作、前原一誠、伊藤博文など、幕末から明治期に活躍した人材を教育しました。
日米修好通商条約の調印を批判し、藩に老中要撃の計画を提起したりしたため再入獄。
翌年、幕府から藩に松陰東送の命が下り江戸に送られ、訊問に際しペリー来航以来の幕府の一連の政策を批判して処刑されました。
⇑至誠館(松陰神社境内に出来た宝物殿) 幾多の英才を育てた松下村塾
萩城下の松本村(現在の萩市)に、松陰の叔父である玉木文之進が1842年(天保13年)に設立したのが松下村塾のはじまりで、松陰は1855年(安政2年)に、実家である杉家に蟄居する事になり、杉家の母屋を増築して、引き継ぐ形で松下村塾を主宰、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れました。
松陰が塾生達の指導に当たったのは僅か2年余りにしかすぎなかったのですが、松陰の指導・薫陶を受けた松下村塾門下生達は尊王攘夷を掲げて京都で活動した者や、明治維新で新政府に関わる者など幕末・明治において大きな活躍を果たしました。
久坂玄瑞や高杉晋作、吉田稔麿など倒幕運動の中で重要な役割を果たしながらも、それ故に明治維新を前にして道半ばで斃れた者も多いが、生き残った者は、伊藤博文、山県有朋の内閣総理大臣を筆頭に、多数の国務大臣、大学の創業者など近代日本に繋がる大きな役割を果たしました。
その中でも、有名な門下生には久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、飯田俊徳、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎などがおり、「吉田松陰」と「松下村塾」の名は門下生達の活躍により、全国に轟き、現在まで語り継がれる歴史上稀に見る奇跡の私塾となったといっても過言ではありません。
【吉田松陰語録】
至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり(至誠をもって対すれば動かすことが出来ないものはない)
志を立ててもって万事の源となす(何事も志がなければならない。志を立てることが全ての源となる)
優れた教育者としての吉田松陰の遺品をまじかに見て、日本の進むべき方向を再確認しては如何ですか・・・・
山口県においでませ!!