坂本竜馬の命の恩人は・・・???

いよいよ来年1月3日から大河ドラマ「龍馬伝」がスタートします。
この脚本を書いたのが山口県(徳山)出身の福田 靖と言うことで、やはり龍馬と下関は・・・
今回は龍馬と下関の三吉慎蔵を紹介します。
三吉慎蔵三吉慎蔵は、長府藩士で馬廻り役、宝蔵院流槍術の名手です。幕末騒乱の時代、長州藩の支藩長府藩(下関市長府)で活躍した青年武士でした。
さて、皆さんは、「坂本龍馬と下関」の関係については、どの程度ご存知でしょうか?
慶応 2 年から 3 年にかけて、坂本龍馬は、下関を拠点に東奔西走しています。
妻のお龍さんを伊藤家本陣(伊藤九三当主)に預けているくらいですから、よほど下関を気にいっていたのでしょう。こうした状況の中で、「坂本龍馬と三吉慎蔵」の結びつきが出来てきました。
二人の出会いは、慶応 2 年の元旦でした。
この時のことを年譜では次のように記しています。「慎蔵時勢探索の藩命を受け印藤聿の紹介で坂本龍馬と初めて面会する。龍馬と同宿して懇談す」
これ以後、龍馬と行動を共にします。
1 月 19 日伏見寺田屋に入り止宿。
薩摩藩士と偽って情報収集を行い、一方、龍馬は、あの劇的ともいえる「薩長同盟」締結を 1 月 20 日成し遂げます。
薩長の和解から同盟への道すじをつけた龍馬という男は、矢張り凄いですネ。
その安堵も束の間、 1 月 23 日八つ時(午前 2 時頃)寺田屋で幕吏の襲撃を受けます。
寺田屋龍馬は、高杉晋作から贈られたピストル、慎蔵は短槍で応戦、ピストルの威力は、音からして凄まじく、まず刺客一人に命中、慎蔵の槍先も鋭く、相手はひるんで容易に仕掛けてきません。
しかし龍馬が弾を込めている一瞬をついて、敵が斬りつけ、龍馬は敵の刀をピストルで受け止めましたが、その時、右手の親指から人さし指の根元をざっくりと斬られてしまった。
慎蔵は、龍馬に自分が防ぐから、裏の梯子伝いに逃げるように伝えますが、龍馬は最後まであきらめずに、命を大切にすべきと慎蔵を促し、一緒に別の階段から路地にのがれました。
負傷した龍馬は材木置場に身を潜ませ、その間に慎蔵は伏見の薩摩屋敷に危急を通報。すぐ様、救援の藩士たちが出動し、龍馬を救出しました。
危険を冒して救援を求めた慎蔵は、龍馬の命の恩人です。

この時の慎蔵の働きと龍馬救出に、西郷隆盛らから称賛の声があがり、三吉慎蔵イコール長府藩イコール長州藩というように大いに株があがりました。慎蔵の生き方は三吉家の家訓“誠之”の通りで、隆盛も長州藩の誠実さを悟り、この時、初めて薩長の盟約はなったのだと、慎蔵の人徳を称えています。
薩長同盟その後二人の信頼関係は厚く、龍馬は慎蔵宛の手紙に「もし自分に万一のときは、愚妻(お龍)を土佐に送り返してもらいたい」と頼んでいます。
慶応 3 年 11 月 15 日、龍馬は京都近江屋で暗殺されます。慎蔵は、龍馬との約束通り、お龍と君枝姉妹を長府の自宅に引き取り翌慶応4年(1868)3月、高知の坂本家に送り届けた。
維新後の三吉慎蔵は、自ら高位高官を望むことなく、長府毛利家の家扶、また宮内省御用掛として北白川宮家に仕えるなどし、明治23年(1890)に辞任して郷里の長府に帰った。
以後は悠々自適して明治34年(1901)2月、71歳で他界した。
三吉慎蔵の墓は、長府功山寺の国宝仏殿の真裏にあたる三吉家の墓地にあります。
薩長同盟の締結は薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の桂小五郎そして仲介役の坂本龍馬が主役だが、影の立役者は三吉慎蔵では???・・・・