乃木希典を知ってますか???

明治天皇崩御に妻とともに殉死した有名な軍神 乃木希典は下関の長府で幼年時代を過ごしました。
彼を祀った神社は沢山ありますが東京赤坂や下関市長府が代表的なものとして知られています。
乃木神社 乃木希典は嘉永二年(1849)11月、長府藩士乃木希次(まれつぐ)の子として、江戸麻布の長府毛利藩邸に生まれた。
乃木家は代々医をもって江戸長府藩邸に仕えていたようだが希次の時禄高八十石の馬廻格として士分に取り立てられた。
幼名を無人(なきと)、のちに源三(げんぞう)、文蔵(ぶんぞう)と改め、安政五年(1858)十歳のとき、父と共に長府へ帰りました。
幼いときの無人は、両親の期待に反して、近所の子供達から「無人は泣き人」とからかわれるほど、体の弱い、泣き虫な子で、ガキ大将にいじめられた時は、妹のキネに助けてもらうような弱虫でした。
「これではとても武士の家を継ぐことはできない」と考えた両親の厳しいしつけを受けました。
悪いことやいくじのないことをしたら、びしびしと容赦なくしかる毎日でした。
父は、無人を体の丈夫な立派な武士に育てることが一番の夢でした。
このため、無人の着るものは、いつも木綿の粗末な服ばかりで、冬の寒い日でも足袋を履かせてもらえませんでした。
少しでも寒がっていようものなら「そんな事で立派な武士になれるか」と父親の恐ろしい声が飛んできて、あたまからザブーンと冷たい水をかけられます。そして、雪の降る中をはだしのままで、荒っぽい剣道の寒稽古が何時間も続き、厳しく躾をしたとのことです。
文久三年(1863)幕末の争乱の最中、十五歳で集童場へ入り、ここで桂弥一、滝川辯三らと共に学び、その後、松陰の叔父にあたる萩藩の玉木文之進の指導を受け、つづいて高杉晋作など、明治の立役者が学んだ萩藩校の明倫館に入学しました。
慶応二年(1866)6月に小倉戦争がはじまると、彼は萩から長府へ帰り、 報国隊に加わって活躍しました。
このとき十八歳、彼が経験したはじめての戦いでした。
明治二年には彼は伏見親兵兵営に入り、ここでフランス式の軍事訓練を受け、職業軍人として歩みはじめた。
明治4年、二十三歳で陸軍少佐に任官、明治十年二十九歳のときには 第十四連隊長心得として西南の役に出陣したが、熊本城攻撃の最中に連隊旗を失うという事件が発生し、生涯彼の心に大きな負担を与えつづけ後の殉死に至る大きな要因となりました。
明治十九年ドイツ留学、同二十一年帰国。このドイツ留学後、彼はその生活態度を一変させ、以後「乃木式」と呼ばれる質実簡素な生活が始まります。

乃木将軍 明治二十五年、彼が四十四歳のとき、一時軍を退いて栃木県那須で農耕生活に入りましたが、二十七年に日清戦争がはじまると第一旅団長として参戦、また三十七年に日露戦争がはじまると第三軍司令官として旅順要塞の攻略戦を指揮した。
このとき彼は二人の息子を戦いで失い、名高い
「山川草木転荒涼・十里風腥新戦場・征馬不前人不語・金州城外立斜陽」の詩を残しました。
明治四十年、五十九歳のとき明治天皇の要請で学習院院長に就任、彼の人間性が教育の面に強く浮き彫りされた。
希典が妻静子と共に、東京赤坂の私邸で自刃したのは大正元年(1912)六十四歳の秋で、終生敬愛した明治天皇の死に殉じたものでした。
彼は詩人としても非凡な才能を持ち、書にも巧みであり、長府には、長府博物館・乃木神社宝物館・豊浦小学校教育資料館・長府図書館等に数多くのゆかりの品が保存されています。
乃木希典の生き方が今の政治家や若者そして、教育に必要では??・・・現代の日本人が失ってしまった?? 古武士のような徹底した清廉な生き方をもう一度振り返ってみるのも良い時期ではないだろうか。