長州の若き志士・・・

NHK大河ドラマ龍馬伝では坂本龍馬が長州の吉田松陰に会ってから自分の生き方を見つけ土佐藩脱藩と行動を起こし始めましたが、長州藩にも若き藩士達が新しい時代を夢見、着実に育ち始めていました。
高杉晋作、吉田稔麿と共に松下村塾の三秀といわれた久坂玄瑞達です。
今回は久坂玄瑞についてご紹介します。
久坂玄瑞 久坂玄瑞は藩医・久坂良廸の次男として生まれる。
藩校・明倫館に入学、ついで吉田松陰に学び、高杉晋作とともに松下村塾の双璧と称されました。
松陰は久坂を長州第一の俊才であるとし、高杉と争わせて才能を開花させるよう努めました。松陰は、久坂を自分の妹、文と結婚させるほどのほれ込みようでした。
安政5年、江戸に遊学して蘭学・医学を修行、翌年帰藩。
松陰が処刑されると、その遺志を継承し攘夷論を唱え、藩論の航海遠略策を批判しました。
文久2年(1862年)武市瑞山の使者として萩を訪れた坂本龍馬に面会後、藩をこえた草莽の結合を提示し、また攘夷の勅命降下を図って、高杉らと品川のイギリス公使館を焼討ちしました。
翌年、下関で攘夷派公家の中山忠光を擁して光明寺党を結成し、5月10日における攘夷戦では、光明寺党を率いてアメリカ艦を夜襲しました。
この光明寺党が、のちに奇兵隊の基盤となりました。
8月18日の政変後は、京都・山口間を往復して藩の勢力回復に尽力しました。
当初実力による入京に反対しましたが、元治元年(1864年)6月、藩の方針が京都進発論に決すると諸隊を率いて上洛し、7月19日に禁門の変となり、堺町御門で越後・会津・桑名・薩摩諸藩兵と力戦しましたが、流れ弾にあたって鷹司邸で自刃しました。
享年25歳の若さでこの世を去ってしまいました。
新しい時代を夢見た高杉晋作、坂本龍馬、久坂玄瑞など多くの志士が早く命を落としたことに・・・あぁ~残念!!
現代の混沌とした時代に明治維新の時の若き血潮を滾らせる熱血感溢れる若者が出現して欲しいと思うのは・・・小生の願望です。