今朝は久しぶりに太陽を拝むことが出来ました。
昼前から地元国会議員の新春の集いに参加してから、下関駅を見下ろす大歳神社へ我社の味噌を納品して来ました。
毎年、節分祭の景品に味噌を使っていただいておりますが、神社へは車で上がることが出来ず、正面の階段か横の階段を昇って行く方法しかありません。
今年は正面の階段から4名で商品を抱え、納品しましたが階段の途中で一息入れなければ・・・・
足はガクガクするし、息は上がるし・・・あぁ~歳は取りたくないですね~(*_*)
この大歳神社は寿永四年(1185年)、平家追討の任務を負うた源義経が武運の守護神と仰ぐ富士浅間神社(源氏の御祖と仰ぐ清和天皇を合祀)の御氏神、大歳御祖大神の神助を請い、平家が布陣を整える彦島を望む有明山(大歳山・円山)に小松(富士の小松)を植え、篝火を焚き、二日二夜の斎戒沐浴をして戦捷祈願をこめたと伝えられています。
その後、祈念を注いだ桑の弓矢をもって平知盛率いる平家軍に開戦の矢文を射込み、驚いた平家軍は急遽、壇ノ浦に軍船を進め一戦を挑んだが、待機していた源範頼の軍勢と義経軍との挟み撃ちに合い、敢え無く滅亡したと言われております。
翌年の文治二年(1186年)、四軒の漁民が義経の祈願の有様を畏敬して、神祠を祀ったことから大歳神社の由緒とされています。
以来、武運長久の神としての神威は光輝を益し、文久三年(1863年)、維新回天の大業に蜂起した奇兵隊は氏子・白石正一郎宅にて、高杉晋作の唱導により結成され、奇兵隊旗揚げの軍旗は大歳神社に奉納された。
折しも四国連合艦隊との交戦のさ中、正一郎は攘夷成就を祈請して大鳥居を奉納しました。(現鳥居)
古代社会から貴族社会、そして武家社会から近代への変遷を通じ、大歳神社の御神徳が現在も脈々と引き継がれています。
下関駅の近くです。是非一度登ってみてください。
昼前から地元国会議員の新春の集いに参加してから、下関駅を見下ろす大歳神社へ我社の味噌を納品して来ました。
毎年、節分祭の景品に味噌を使っていただいておりますが、神社へは車で上がることが出来ず、正面の階段か横の階段を昇って行く方法しかありません。
今年は正面の階段から4名で商品を抱え、納品しましたが階段の途中で一息入れなければ・・・・
足はガクガクするし、息は上がるし・・・あぁ~歳は取りたくないですね~(*_*)
この大歳神社は寿永四年(1185年)、平家追討の任務を負うた源義経が武運の守護神と仰ぐ富士浅間神社(源氏の御祖と仰ぐ清和天皇を合祀)の御氏神、大歳御祖大神の神助を請い、平家が布陣を整える彦島を望む有明山(大歳山・円山)に小松(富士の小松)を植え、篝火を焚き、二日二夜の斎戒沐浴をして戦捷祈願をこめたと伝えられています。
その後、祈念を注いだ桑の弓矢をもって平知盛率いる平家軍に開戦の矢文を射込み、驚いた平家軍は急遽、壇ノ浦に軍船を進め一戦を挑んだが、待機していた源範頼の軍勢と義経軍との挟み撃ちに合い、敢え無く滅亡したと言われております。
翌年の文治二年(1186年)、四軒の漁民が義経の祈願の有様を畏敬して、神祠を祀ったことから大歳神社の由緒とされています。
以来、武運長久の神としての神威は光輝を益し、文久三年(1863年)、維新回天の大業に蜂起した奇兵隊は氏子・白石正一郎宅にて、高杉晋作の唱導により結成され、奇兵隊旗揚げの軍旗は大歳神社に奉納された。
折しも四国連合艦隊との交戦のさ中、正一郎は攘夷成就を祈請して大鳥居を奉納しました。(現鳥居)
古代社会から貴族社会、そして武家社会から近代への変遷を通じ、大歳神社の御神徳が現在も脈々と引き継がれています。
下関駅の近くです。是非一度登ってみてください。