下関と朝鮮通信使の関わりの歴史について少しご紹介してみます。
室町時代の朝鮮通信使は7回計画され6回実行されましたが、来日を果たした通信使は3回でした。
通信使は、足利将軍家の将軍襲職の祝賀、日本の国情探索、倭寇の禁圧要請などを主な目的としました。
その後、両国関係は豊臣秀吉の朝鮮出兵《倭乱》で破綻しましたが、和平を願う朝鮮王朝は2度、秀吉に朝鮮通信使を派遣したものの、秀吉はこれを無視しました。
江戸時代になると、徳川家康や対馬藩の努力によって、両国関係は修復され、その結果、慶長12年(1607)から再び朝鮮通信使が派遣されるようになり、12回の来日を数えました。
そのうち、国交回復間もない時期に派遣された第3回までの通信使は、朝鮮王朝では回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)として派遣しており、日本の国情探索と倭乱で連れ去られた朝鮮人俘虜の刷還(さっかん)を主な目的としました。
両国関係が安定すると、朝鮮通信使は徳川将軍家の将軍襲職のたびに派遣され、両国の友好関係を国内外にアピールしました。
また、政治的な意義に加え、文化的な交流が深まりました。
下関は、朝鮮通信使が初めて接する日本の都会で、潮待ちや風待ちなどのため、必ず滞在する必要があり、対馬での易地聘礼となった最後の通信使を除く16度の通信使が当地に寄港しています。
特に、倭寇の禁圧要請が最大の使命となっていた室町時代の通信使は、倭寇に影響力を持つ大内氏とも信を通わす必要があったので、通信使は下関において、必ず大内氏の歴代当主と対面し、倭寇禁圧や海賊が横行する瀬戸内での通信使船の航行安全などを要請しました。
この時代、下関は通信使の成否を握る重要な地でした。
通信使の下関での客館は、50人程度の人員であった室町時代は阿弥陀寺(現在の赤間神宮)、300~500人規模となった江戸時代は阿弥陀寺と引接寺が充てられました。
客館は使行のたびに修築され、豪華な調度品が華やかさを演出しました。
阿弥陀寺には三使及び上官、引接寺には中官と下官が宿泊し、通信使の案内と警固のために随行した対馬藩主は馴染みの本陣伊藤家、対馬藩士は下関の商家数十件に分宿しました。
下関での迎接を担当した長州藩は、通信使一行をそれぞれの身分に応じて、豪華な料理や酒でもてなしまし、また、山海の珍味、果物、菓子、名産品なども差し入れました。
阿弥陀寺では文化交流も盛んに行われ、防長の学者たちは朝鮮王朝一流の学者から、先進的な儒学や医学を学び、交流の成果を出版しました。
江戸中期以降の防長(山口県)における学問の興隆は、朝鮮通信使がその一翼を担っていました。
下関では 2001年8月、通信使の歴史と功績を後世に伝えようと、下関商工会議所や山口県日韓親善協会連合会などでつくる建立期成会が赤間神宮前の阿弥陀寺公園内に建立しました。
石碑には、「朝鮮通信使の歴史的な意義を再認識し、一行上陸の当地に記念の石碑の建立、その歴史を恒久的に顕彰しようとする」との建立の趣旨が刻まれています。
下関と韓国釜山市は姉妹都市として経済・文化等の交流が盛んで、この朝鮮通信使の再現行列のイベントには釜山の高校生をはじめ、多くの釜山市民と下関市民が参加しています。