お亀伝説!!

昨日お参りした亀山さんについて・・・
亀山八幡宮は、下関市の中心地に祀られています。
御祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・仁徳天皇。
平安時代・貞観元年(859)に宇佐八幡宮から勧請されました。
「関の氏神さま」「亀山さま」と親しまれている亀山八幡宮がある地は、古くは島でした。
平安時代・貞観元年(859)に、京の都の守護のため宇佐神宮(大分県)から石清水八幡宮(京都府)に勧請される途中、この島の麓に停泊されました。
その夜、「此の山清浄なり、我もっとも愛す。
暫らく祭祀し奉り路を進むべし」とのご神託があり、供の勅使は国主に命じ仮殿を造営させてお祀りし、再び京に向かわれたと伝えられています。(享保年間「防長社寺由来」記載)
「亀山」という名称は、当時島の形が亀に似ていたとも、宇佐の八幡様がお祀りされている山が亀山だからともいわれています。
室町時代に明と貿易が始まると、遣明船は太刀を奉納し航海安全を祈願しました。
戦国時代、国内はもとより藩も疲弊し神社も荒廃していましたが、藩主大内義興は永正3年(1506)に朝鮮国国主に当宮修復の寄進を要請し、その財でもって社殿・楼門等が修築されました。
当時朝鮮と交易していたとはいえ海外に寄進を仰いだことは稀有なことであります。
次の藩主義隆も神社の興隆に力を注ぎ神領550石を寄進され、次いで毛利藩主も300石を献じ能舞台等を建立。
元禄15年(1702)には「長門国三社」と号されています。江戸末期の文久3年(1863)に藩主は攘夷を祈願し、慶応3年(1867)に国難去ったとして剣馬を寄進されました。
このように亀山八幡宮は、累代藩主の崇敬・庇護が篤いお社であります。
明治7年に郷社、同34年県社。昭和43年に別表神社に列し、下関60ヶ町の氏神様として尊崇されています。
十返舎一九は「金草鞋」に、「・・・・亀山八幡とて岩の上にありて波打際に石の鳥居立てり山上は見渡し絶景の処なり・・・・」とありますように、関門海峡の清流に臨み帯水を隔て九州連邦を望見する佳景は、古くから「鎮西第一勝の地」(杏雨)・「西海第一関」(有朋)と称えられ、古今文人墨客の詠風を伝えています。
室町時代の連歌師の飯尾宗祇は「秋遠し亀の上なる峯の松」と詠じ、江戸時代の俳人大淀三千風は「亀の守神松風や常かほり」と吟じ、明治時代中期の地元の俳人中野水月は「風かほる宮居や洋を右左」と詠んでいます。

お亀伝説
お亀銀杏江戸時代の始め頃、街の発展のために陸続きにする埋め立て工事が、毛利藩によっておこされました。
しかし海峡の潮の流れは、ひと岩沈めればひと岩を流す急潮であり、工事は多大の工費と、人の命を犠牲にするのみでなかなか成し遂げられませんでした。
時に稲荷町(現・赤間町。当時江戸の“吉原”・京の“島原”につぐ三大遊廓の一つ)の“お亀”という疱瘡を病み顔に「アバタ」のある遊女が、町かどに立った人柱募集の高札を見て「我が身を滅して功あるならば」と人柱に立ち、月夜の海に白衣に身をつつみ、海に身を投じて埋立の礎石となりました。
その後急潮に悩まされる事もなく難工事も無事に終わり、時の人は境内にイチョウの木を植えお亀さんの功績を讃えました。これがお亀イチョウです。
お亀イチョウは先の戦禍にあい焼失しましたが、お亀さんの遺志を継ぐかのように新芽が成長し、今なお母なる木の面影をしのばせています。
毎年秋に無数の実を結ぶ銀杏には、不思議にもたくさんの斑点があり、お亀さんの顔のあばたが残ったものと伝えられ「お亀銀杏」といわれています。
この実は明治の頃に天然痘が流行した時、多くの人に疫病除けのお守りとして求められました。