下関の彦島昔話!!

今は橋で繋がった彦島・・・歴史の中に度々登場する彦島について少しご紹介します。
彦島は「日本書紀」にはじめてその名前が登場して以来、海上交通の要衝として、とくに軍事・国防の観点から重要な島として歴史に度々登場してきました。
その歴史の中で多くの太古の権力者がこの島に軍事拠点を築き、時には黄泉の国への入り口として、時には時代の変わり目の最後との砦として位置付けられたことを示すさまざまな痕跡を島に残して去りました。
今回はこの島にある福浦金比羅宮を紹介します。
福浦金毘羅宮-2文政2年(1819)長府藩11代藩主 毛利元義が、海防と福浦港の繁栄を図るために、郡代 水野忠実に命じて忌宮神社の境内に祀っていた金刀比羅宮を、彦島 福浦湾の兜山(かぶとやま 後に富観台(ふかんだい) とも)に移したもので、文政3年(1820)に神殿、拝殿が完成しました。
北前船が入港した時には、神官が船まで出向いて海上安全を祈祷をしたのが評判となって、参拝者や寄港する船がふえ、福浦の港は大変 繁盛したといいます。
福浦金毘羅宮嘉永2年(1846)には、海防調査を命じられた吉田松陰も、ここを訪れました。
石段は279段あり??、約50度の勾配は日本一とも言われています。
この階段の数を数えながら上ると、8合目あたりの脇道の所で、必ず何かあって数を間違えるという、「こんぴらぎつね」の昔話も伝わっています。
きつねに騙されないように、貴方も石段の数をチェックにおいでませ!!(*^^)v