天下の奇祭とは!!

8月に入っても慌ただしい毎日の連続(*_*)
一日には我社の常務が鼠径ヘルニアで長府にある関門医療センター急遽入院・・・仕事のスケジュールが大変なことに!!
8月7日~13日に長府の忌宮神社で開催される数方庭祭に行って観る予定が・・溜まった仕事の処理で今年も中止。
皆さんに天下の奇祭と言われる『数方庭祭』をご紹介しますね。
1800年の歴史を誇る「数方庭祭」は天下の奇祭と言われ、毎年8月7日から13日までの1週間、毎夕7時より本殿祭があり、7時30分より10時頃まで四度数方庭の神事が毎夜行われており、1984年(昭和59年)11月に山口県無形民族文化財に指定されています。
数方庭祭-5仲哀7年(198年)熊襲(くまそ:九州の豪族)を扇動して、新羅(しんら)国の凶酋塵輪(じんりん:真ん中に大きな鬼の顔、その回りにやや小さな鬼の顔が7つあり全部で8つの鬼の顔からなる)が豊浦宮(仲哀天皇が設けた仮皇居)に攻め寄せて来ました。
これに対し、皇軍は大いに奮戦しましたが、黒雲に乗って海を渡ってきた塵輪が空から射かけるために苦戦し、宮門を守護する阿部高麿・弟助麿も相次いで討死しました。
そこで天皇は「空から射かける者、尋常の者にあらず」と大いに憤たせ給い、ついに御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射落とされました。
そして賊軍は退散し、皇軍歓喜のあまり矛をかざし、旗を振りながら塵輪の屍のまわりを踊り狂ったと言われています。
また、塵輪の首を切ってその場に大きな石で覆ったが、塵輪の顔が鬼のようであったことから、その石を鬼石と言い伝えられています。
神功皇后の三韓ご出陣やご凱旋の際にも、この鬼石のまわりで素朴勇壮な舞が行われたと言われこれが「数方庭」の由来とされています。
さて、現在の「数方庭祭」の形が整ったのは、長府藩三代藩主毛利綱元公の頃と言われています。
世は元禄、殺伐を好まない太平の時代。
それまで用いられていた矛や薙刀を禁止して、竹竿幟と切籠(きりこ)と言われる笹飾りの様式に変更されました。
以来、その形で続けられてきましたが、大正の初めの頃から、従来の小幟に代わって大幟が登場するようになったと言われ、それからは競って大幟を出すようになってきました。
今では、太い竹の先に鳥毛と鈴、ダシと呼ばれる家紋や社紋を染め抜いたものと、白い幟を巻いた大幟(おおや)を、男性が1人1本ずつ持ち、鬼石の回りを鐘や太鼓の音に合わせて回ります。
長さ30メートル、重さ100キロという幟もあり大変勇壮な光景です。
鬼石の上に太鼓を据え、「スッポウディ」と言われる独特なリズムを打ち鳴らし、それに合わせてまず切籠が、次に小幟・中幟・大幟が順次登場して鬼石のまわりを回ります。
勇壮にして典雅、まさに“天下の奇祭”の名にふさわしい祭りで、大正15年には皇太子殿下(昭和天皇)が御台覧されました。
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