歴史散歩・・・下関

今日は下関の歴史散歩・・・長府の歴史についてご紹介!!
長府の歴史は古く、この地が「古事記」や「日本書紀」などの記録の上に登場してくるのは西暦193年で、仲哀天皇、神功皇后が西国平定に際し、この地に豊浦宮(とよらのみや)を置かれた頃に始まる。
忌宮神社-1
大化の改新(645)以降、この地方は穴門(あなと)、阿武(あんの)の二つの国が合わせて長門(ながと)の国となり、その国府が、ここ豊浦に置かれたことから「長門の国の国府」が縮まって、長府とよばれるようになたとのことです。
長門の国は厚狭・豊浦・美祢・大津・阿武の5郡からなり、その地方行政官庁である国衛が置かれ、国府が定められたのが豊浦津の地でした。
現在の忌宮神社が豊浦宮の跡と言われています。
次いでわが国最初の金属貨幣「和同開珎」の鋳銭所が設けられた。
当時、全国では武蔵をはじめ5ヶ所で造られたことがわかっているが、場所が特定できるのはここだけだという。
和同開珎
また、聖武天皇の時代に、国の守りとして奈良に東大寺が、各国の守りとしてここ長府にも国分寺、国分尼寺が建てられた。
壇之浦で平家が滅亡して武家政治の時代になると長府には守護職が置かれたが、南北朝対立や戦国時代の争乱期には、その中心的地位を失っていきました。
戦国時代が終わり、中国8ヶ国を支配していた毛利氏が、関ヶ原の戦いで西軍に荷担したため防長2ヶ国に封じられる。
本藩は萩に置かれたが、それまで長門国他の領主であった毛利秀元(毛利元就の四男)は豊浦郡の全域を藩領として、大内氏の家臣がいた長府の串崎城を再建し、長府支藩をおこすこととなりました。
岩国・徳山と共に支藩として長州藩を支え、江戸期を通じ城下町が長府の町に形成され、今も残る武家屋敷を始め独特の雰囲気を持つ長府の町は下関の観光の目玉です。
続きは次回に・・・お楽しみに!!