史跡・・中山神社の奉られているのは?

今日は下関の史跡を紹介します。
昨年、久坂玄瑞の事をブログに書き込みましたが久坂玄瑞が率いる光明寺党の党首であり、下関で悲惨な最期を遂げた中山忠光卿と中国清朝最後の皇帝、宜統帝(薄儀)の弟、愛新覚羅薄傑(あいしんかくら ふけつ)、及び彼の妻で忠光のひ孫にあたる浩(ひろ)を祭神とした神社があります。
中山神社は明治維新の先駆者であった青年公卿 中山忠光が祭神です。
中山忠光卿は孝明天皇の皇后にあたる中山慶子(よしこ)様の弟君で、明治天皇の叔父にあたります。
中山神社彼は過激な公卿として急進的な尊王攘夷を唱え、ついには官位まで辞して天誅組を結成しました。
しかし、文久3年の8月18日の政変で七卿も落ちる、忠光卿の天誅組も名分を失い、朝敵の汚名を受けることとなります。
その後、長州に落ち延び、山陰を転々とされますが、元治元年(1864年)の禁門の変、下関戦争、第一次長州征伐によって長州藩内俗論派が台頭すると、同年11月9日の夜に長府藩の豊浦郡田耕村で5人の刺客によって暗殺された。
その後僅か37日、高杉晋作と奇兵隊による回天の義挙が也り、藩内の俗論派は一掃され、中山卿が埋葬された場所に社殿が造られ鎮魂を祈られるようになりました。
このように中山卿の暗殺は薩摩と並ぶ維新の雄藩として知られる長州藩が揺れに揺れていた時代の暗い事件の一つと言えるのかもしれません。
また、中山忠光卿が長州で過ごした際、恩地とみという女性との間に南加という名の姫が生まれます。
この南加姫が後に嵯峨公爵家に嫁ぎ、孫として生まれたのが嵯峨浩(さがひろ=後の愛新覚羅浩)です。
つまり浩さんは中山忠光卿の曾孫にあたります。
嵯峨家は明治の初め頃まで正親町三條(おおぎまちさんじょう)と名乗っており、公家のなかでも名門中の名門といわれています。
中山神社-2浩は日本国と満州国を結ぶ親善結婚として満州国皇帝溥儀(ふぎ、いわゆるラストエンペラー)の弟、溥傑(ふけつ)氏に嫁ぎます。
昭和20年の終戦と同時に満州国は崩壊し夫君の溥傑さんは皇帝の弟であったため中国に逮捕され、浩は一年以上の流浪の末に日本へ帰国します。
お二人の離ればなれの暮らしは16年に及びますが、長女の慧生さんが当時の中国首相であった周恩来氏に書いた手紙がきっかけになり、溥傑さんは特赦を得て復権します。
その後お二人は北京で幸せな老後を過ごしたそうですが、浩さんが昭和62年、溥傑さんが平成6年に亡くなり、長女の慧生さんと三人をこの地にお祀りしたのが中山神社の中に境内摂社として造られた愛新覚羅社です。
日本の神社や社(やしろ)は東か南向きに造られているのですが、この愛新覚羅社は溥傑さん浩さんお二人の日中友好の志を踏まえ、はるか海を越え、中国を望む西へ向けて建てられています。