しものせき海峡まつり無事終了!!

下関海峡まつりも無事終了しました。
メインイベントの先帝祭は毎年、五月二日の御祭神安徳天皇御命日を皮切りとして以後三日間に亘り行われます。
『関の先帝、小倉の祗園 雨が降らねば金が降る(風が吹く)』と古くから言われ、関門海峡を舞台に歴史絵巻を繰り広げる「しものせき海峡まつり」が下関市で開かれ、37万2000人(主催者発表)の人出でにぎわいました。
上臈道中-1呼び物は、壇ノ浦の合戦(1185年)で入水、幼くして亡くなった安徳天皇をしのぶ「先帝祭上臈道中」。
あでやかな打ち掛け姿の太夫役が、安徳天皇をまつる赤間神宮を参拝し、境内で八の字を描くように足を踏み出す「外八文字」を披露すると、観光客らから大きな拍手がわき起こります。
先帝祭-4 この先帝祭の由来は壇ノ浦の戦いの翌文治2年(1186年)、長門国に命じて安徳天皇の遺骸を納めた阿弥陀寺(現赤間神宮)境内に御影堂を建立し、安徳天皇の命日(3月24日)にその遺徳を偲ぶ先帝会を修したのが起源といい、以後毎年3月24日に安徳天皇の御陵の前で「御陵前祭」を営み、明治以降は祭日を太陽暦(4月23日)に改めて例祭とし、その後更に現行日(5月2日)へと改められました。
先帝祭-32日は平家落人の子孫らで組織される全国平家会の参列のもと御陵前での神事を始め、平家一門追悼祭などがあけ、翌3日に、平家の遺臣で中島四郎太夫という者が、漁師に身を窶して平家再興を計りつつ下関に潜伏、先帝会には威儀を正して参拝したという故事に因んで、その子孫に端を発する「中島組」という漁業団体員が参拝、これを「中島組参拝の式」といい、それに次いで「上臈・官女参拝の式(「上臈道中」)」となるが、これも壇ノ浦戦の後に在地の苫屋に援われた建礼門院(平徳子)の侍女達が、在地の苫屋に養われつつ御陵に香花を手向け、先帝会には容姿を整えて参拝したことに縁由すると言われています。
先帝祭-6その後、妓楼を営むようになった苫屋の主人が、侍女達及びその遺族も没したために、抱える遊女達にその風俗を真似て宮廷装束に身を纏わせて参拝させるようになり、これが江戸時代に至って、当時存在した稲荷町遊廓の遊女によって受け継がれて、現在の「上臈道中(じょうろうどうちゅう)」となったといい、吉原の花魁に模した太夫が禿(かむろ)、上臈、稚児、警固(けいご)らを従い、下関市中を外八文字を踏んで歩きます。
現在は舞踊協会の方々によって引き継がれています。