高杉晋作・坂本竜馬が遊んだ色街は・・・

江戸時代に港町として繁栄した下関ですが、港町につきものの遊郭もたくさんありました。
北前船の寄港により下関が繁栄していくにつれ、遊郭も隆盛となっていきました。
その代表が稲荷町です。井原西鶴の「好色一代男」にも稲荷町のことが描かれています。
この稲荷町は昭和39年の戦後復興による区画整理のため、町並みの様子もすっかり変わり、町名も赤間町と改められています。(唐戸市場から歩いて5分)
下関の花街としてはこのほかに、稲荷町に隣接する裏町、豊前田、竹崎、今浦、新地遊郭などがありましたが、稲荷町の遊郭が全国に知られていました。稲荷町の最大の妓楼だった『大阪屋』
高杉晋作が、下関で奇兵隊を結成し、朱鞘の大刀を腰にぶちこんだ壮士が稲荷町を闊歩したのもそのころです。
土佐の坂本龍馬もやってきたし、長州の志士では桂小五郎、久坂玄瑞、伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)、山県狂助(有朋)といったそうそうたる顔ぶれが、戦陣の暇をみつけてくりだしてきたのも稲荷町です。
彼らはいずれも大阪屋の常連だったとのこと。
戦いのなかで幾組かのラブ・ロマンスも花を咲かせたと言われています。
NHKk龍馬伝では龍馬が長崎を拠点に京都、江戸、薩摩と全国を疾風のように駆け巡っていますネ。
その移動の要所となり、頻繁に龍馬が訪れることになるのが長州下関です。
龍馬と下関の関係では、第二次幕長戦争の小倉海戦(慶応2(1866)年)において龍馬が長州の軍艦ユニオン号を指揮して加勢したことが華々しいエピソードとして有名ですが、それ以上に龍馬と下関との関係で欠かせないのが妻・お龍の存在です。
龍馬とお龍が下関で夫婦水入らずの日々を過ごしはじめたそんなある日、龍馬が稲荷町で遊んで「朝帰り」し、それを怒ったお龍の機嫌をとるために即興でつくった龍馬の歌が今でも残っています。
龍馬の心情が垣間見れます。
「恋は思案の外とやら 穴門(下関)のせとの稲荷町 猫も杓子も面白う 遊ぶくるわの春景色 ここに一人の猿回し(龍馬) タヌキ(お龍)一匹ふりすてて 義理も情けもなき涙 ほかに心はあるまいと かけて誓いし山の神(お龍) うちにいるのに心の闇路 さぐりさぐりていでて行く」末広稲荷神社 現在、稲荷町の後にはホテルが建って街並みは無くなっていますが、龍馬や高杉晋作が遊んだ色街稲荷町の面影を、今に伝える稲荷神社が残っています。