しものせき海峡まつり開催される!!

今年も5月3日に『しものせき海峡まつり』が盛大に開催されました。
全国から観光客が大挙来関し、下関インターチェンジ・関門トンネルからまつりメイン会場に向かう車で大混雑・・今年は会場と駐車場を結ぶ無料シャトルバスも運航して、渋滞緩和を図ったのですが、晴天に恵まれ、焼け石に水の状態でした。
このまつりのメイン行事の『先帝祭』をご紹介します。
上臈参拝源氏により、京都を追われた平家一門は、安徳帝を奉じて福原・屋島・長門の国へと追われていきます。
源平最後の合戦・・壇ノ浦の合戦では、安徳帝をはじめ祖母の二位の尼(清盛の妻)、母の建礼門院など船に乗って戦の場にいました。
平家の敗色は濃く、敗戦を悟った宗盛の弟・平知盛(たいらのとももり:35歳)は、安徳天皇(8歳)が乗る御座舟に飛び乗り、最期の時が来たことを告げました。
天皇は二位尼(にいのあま)時子(清盛の妻)に抱かれて海中に身を投じました。
平氏の中でも豪勇を誇った平教経(26歳)は、義経を討つべく奮戦したがついに力尽き、源氏の武者2人を道連れに入水しました。
全てを見届けた知盛も入水し、戦いは源氏の勝利に終わりました。
源氏側は天皇と神器の捜索に乗り出し、天皇の母である建礼門院(けんれいもんいん:31歳)は救助されましたが、しかし、三種の神器の一つである宝剣はついに見つかりませんでした。
この戦いで平氏は完全敗北し、歴史の表舞台から姿を消すことになり、その短い栄華の夢を終えました。
わずか8歳の安徳幼帝が祖母二位の尼に抱かれ『波の底にも都の候ふぞ』の言葉とともに、波間におかくれになりました。
「関の先帝 小倉の祇園 雨が降らなきゃ金が降る」といわれるこの祭は、入水された安徳幼帝をとむらうため、その命日に女臈に身を落した平家の官女達が参拝したことに始まったものです。
十二単衣にうちかけをつけた五人の大夫が稚児官女らをひきつれ赤間神宮に参拝します。
市内新地を出発し、豊前田町を経由し、同神宮まで上臈道中が行われます。
道中での『外八文字』を踏むあでやかな姿は豪華絢欄そのものです。
赤間神宮は龍宮を連想させる水天門、あでやかな朱色の社殿をもち、紅石山の緑を背にあざやかに浮びます。
合戦後、約800余年がたちました今、平家哀話のロマンと華やかな上臈道中をあわせ見る時、いっそう詩情を感じざるをえません。
舟合戦-2また、海峡に身を投じ給うた幼帝(安徳天皇)の御身は折からの満潮(西流)に流されて、本州と彦島の間、小門(おど)の瀬戸に漁澇する中島家の祖、中島四郎大夫正則の網により尊骸は揚げられ、関門の風光最も優れた紅石山の麓に手厚く葬られたのが今の安徳天皇阿弥陀寺陵であると、古くから伝えられており、尓来、その勲功を賞で上臈の参拝(つまり官女の参拝)に先立ち、中島家一家は大紋に威儀を正して天橋を渡り、参拝を行う慣しとなって現在に至っていること。
従って本殿祭の翌日行われます。
本宮を出発してこの旧蹟小門の御旅所まで神輿(鳳輦)の往還する御神幸祭に当っては、この御旅所に待機して、鳳輦の到着するや、自ら撈った神饌を恭しく供する役を、今も中島家によって続けられています。
このまつりが終わると下関に初夏が訪れます。
赤間神宮赤間-3天橋上道中